個人性性

個性と人間性の違いが分からない。

初対面の人間に嫌われないようにと振る舞う仕草を人間性というのならば、僕は大嫌いだ。かといっても個性を初対面の人間に示すのは至極大変な作業であるから更に大変である。 人間関係、このご時世、聖書の次に重要な人脈を築く為にはおおらかに対応するのは当然の仕草だと思うが、役者としてはどうなのだろう。

僕は、僕の思想(といっても他人に影響を与えたいと思わなないが)を一目見たときに感じてほしい為に個性の出し方を模索している定かな訳だか、それがむずかしい。 バイトの面接も芸能事務所の説明会も僕という人間を分からずに一般の対応をしてしまう。

果たして僕に個性などあるのだろうか。ここから作り上げていく理想の(人工的な)個性など、果たして僕の個性と呼べるのであろうか。

日本語という奥ゆかしさ、受託者に委ねる一方的な価値観、瞬間的な幸せ、破滅的な生活、これを個性、自分の思想と呼んでもいい、もしくは発信していってもいいのだろうか。

青臭い、若気の至りと言って誤魔化す我相当を騙してもいいのだろうか、非常に悩ましい限りである。

瞬間的な幸せ、その一瞬に携わっていきたい、その1分、1時間にさえイラマチオように無理やり組み込んでさえいれば幸せであるがそれが難しい。第一身近な親友にさえ、それを与えることが困難となっている訳だが。

 

こんな事を言っている僕ですら鳥肌が立つ程恐ろしいものがあるのだ。

今まで切除していた筈の、割り切っていた筈の「一般人」が妬ましく、羨ましく思ってしまう事だ。こんな生き方をしているのにも関わらず、至極究極な一般的な生活をしているみんなに嫉妬、もしくは焦燥感を感じているのだ。 今自分がこんな生き方をしていると証明する為に何か役職に付きたい、そんな焦りをかんじてしまうのだ。なんて小さくて貧弱な人間なのだろうか。

 

何はともあれ、現在僕は人生の岐路に立たされており来週の8月5日までに決めなければいけないわけだが、僕としての幸せについていま一度考えなければいけないようだ。

至極面倒くさくて、難しい。いっそのことどこかの国に飛ばしてほしいくらいだ。