僕の滞在期!

一つの節目として、祖母の家での生活が一昨日で終わった。

退院によるドーピングで制御が効かなくなった祖父を止めることが出来ず、家での仕事が犬の散歩しかなくなったからだ。

ただ、車の免許を返納させたのは後世に語り継がれても良いくらいの偉業だろう。

 

祖父祖母と暮らすというのは大変貴重な経験なのだろうと思う。

9月と10月と11月、祖父祖母は週に2度か3度痛い痛い足を動かして知人に挨拶をしに出掛ける。少しでも僕が隙を見せると車を出してくれと頼まれるから堪ったもんじゃあない。何度か付いて行ってみたけれど、少しだけ世間話をしてお野菜を貰って帰るだけだった。

 

12月、年末になるとただでさえ入院で苛々している祖父がさらにピリつく。世間話をして仲を取り持ってるナントカさんから藁を貰ってお正月のお飾りを作る。

隙間風が入るボロい物置で日中ずうっと藁を編んでからさらに編む。庭でとれる榊の葉っぱで神棚のお供えを交換してる時でさえひたすらに編んでいた。最近の百姓が作る藁は駄目だ、なんて愚痴を言いながら出雲大社のしめ縄みたいのを作り上げるのだから立派なものだ。

 

1月、年始になるととても慌ただしい。

3が日はもちろん、松の内まで毎日お飾りのメンテナンスを怠らない。さらには鏡開きから小正月まで徹底するのだから休む暇がない。なぜそこまでするの?と祖母に聞いてみたところ、「分からない」そう。きっと周りがやってたから、やっているだけだと思う。 

 

どんど焼きは向かいの神社でやるから祖母も気負いなく参加できる。あなたは蕎麦職人にでもなればいいじゃないと、団子を作っている時に言われた。ヤマダの手打ち蕎麦!と海外でデカデカとお店を開いてる自分を少しだけ想像したが、食中毒を起こしそうだなという理由で断念した。13時30分からどんど焼きが始まるみたいで行ってみるといつも挨拶をしているご近所さんから死にかけているシワシワのお爺さんまで、みんな一緒に団子を焼いてた。結構な大きい火だったからか消防隊の方達もスタンバイしていたが彼らは焼き芋を焼いてた。 だが、1番気になったのは隣のお家のおばあさんがスルメを炙ってたことだった。

 

祖父祖母と生活するにあたって貴重な話を聞けるのだろうなと思っていた。(主に戦争の話、メジャーだが戦争の話、やっぱり戦争の体験の話)

だがいざ生活してみるとそんな深刻な重々しい話なんて聞けるはずもなく、逆に祖母から若者事情を一方的に問いただされるだけだった。

アプリとメルカリの意味とその違いを2週間かけて説明した時には、祖母の頭がショートしていた。 ショートという言葉も理解していないかもしれないが。