美談暗堵
歌詞の内容について、話せないこともある。むしろ話せないからこそ歌になっていることも多い。
それをはぐらかして答えてしまうと罪悪感が残る。自分の深いところの闇や、ふとよぎる感情についてどれくらい正直になれるだろう。
誰かを傷つけても。
ー小山田壮平 08月07日
たとえどんな人間でさえも苦しみや恥を抱えて生きている、そんな闇の部分を洗い流したくてみんな働いているし恋をしているのだと思う。
美しく生きる為に暗い部分を隠して生活をする。それは簡単な事ではないし、少しはそういった部分を出さないと好かれてはもらえないし、生きづらいと思う。
だから、この小山田壮平君の歌はそんな人々を救ってくれるのだろう。
もがき苦しみながら小さな幸せを地球を覆うくらいに広げようとする彼の歌は、人間の奥底の弱点みたいな場所をつついてくれるのだろうと思う。
一見、明るくて日常的な歌詞だけれど、辛くて認められないからこそ闇を隠して隠しながら紡ぎ出したそんな歌詞が共感を生むのだろうと思う。
よく不幸自慢というより、苦しみを比較する人がいるけれど(例えば仕事に苦しんでいる人に、死ぬより辛いことはないから大丈夫だよと言う人など)はこのブログを全否定するでしょう。
簡単な言葉で表せば、人それぞれ同じ人間ではないから悲しみや幸せなんて比べる物ではない。そこを深く強く理解している小山田壮平という人間はやっぱり凄いと思う。
もののけ姫
2020年7月30日に書いた下書き。引き続き書くこともないので投稿しちゃえ!
全国の劇場でジブリ映画が再上映されることもあって、もののけ姫と風の谷のナウシカを観てきた。
言わずもがな、もののけ姫は僕が邦画で1番好きな作品な訳だが、案の定アシタカが蝦夷の村を去る時のアシタカせっき(漢字はわからない)で泣いてしまった、やはりもののけ姫は素晴らしい。
年に3度以上、もののけ姫を観てる僕がこの間初めて気が付いた事の一つとして、主人公アシタカがひたすら寡黙だという事だ。それ以前のジブリ作品の主人公(ナウシカ、キキ、メイ、ポルコロッソ)は独り言が多いのに対してアシタカは一切それがない。基本的に、主人公の独り言というのは物語の流れを汲み取り易くする為に使われる訳だが、それがもののけ姫にはない。
だからこそ、このアシタカヒコという人間が不思議で堪らない。観てる僕ら観客がアシタカとして入り込めるし、または寡黙な時代の見届け人としても見てとれる。
元々巨石文明の末裔の蝦夷の一族もあってか、シシガミの森について1番理解があるのもアシタカである、あのモロ以上に。またこれが面白い、5代勢力(アシタカ、モロやもののけ姫、乙事主、エボシ、ジコ坊)でシシガミ様に対する信仰度、理解がバラバラのがこの作品のミソである。
時代の見届け人アシタカに、人間に捨てられ過去の文明にすがるサン及びモロ、シシガミ様を慈悲の女神と盲信した乙事主、自然の神より人間を恐れた元奴隷のエボシ様。 善も悪もない互いの価値観のぶつかり合いが堪らなく素晴らしい。
また主題歌が史上最高傑作。悲しみと怒り、そこに憎しみなどない各々のやらせなさが凄まじい。
完結途中、メモとして保存しておく
個人性性
個性と人間性の違いが分からない。
初対面の人間に嫌われないようにと振る舞う仕草を人間性というのならば、僕は大嫌いだ。かといっても個性を初対面の人間に示すのは至極大変な作業であるから更に大変である。 人間関係、このご時世、聖書の次に重要な人脈を築く為にはおおらかに対応するのは当然の仕草だと思うが、役者としてはどうなのだろう。
僕は、僕の思想(といっても他人に影響を与えたいと思わなないが)を一目見たときに感じてほしい為に個性の出し方を模索している定かな訳だか、それがむずかしい。 バイトの面接も芸能事務所の説明会も僕という人間を分からずに一般の対応をしてしまう。
果たして僕に個性などあるのだろうか。ここから作り上げていく理想の(人工的な)個性など、果たして僕の個性と呼べるのであろうか。
日本語という奥ゆかしさ、受託者に委ねる一方的な価値観、瞬間的な幸せ、破滅的な生活、これを個性、自分の思想と呼んでもいい、もしくは発信していってもいいのだろうか。
青臭い、若気の至りと言って誤魔化す我相当を騙してもいいのだろうか、非常に悩ましい限りである。
瞬間的な幸せ、その一瞬に携わっていきたい、その1分、1時間にさえイラマチオように無理やり組み込んでさえいれば幸せであるがそれが難しい。第一身近な親友にさえ、それを与えることが困難となっている訳だが。
こんな事を言っている僕ですら鳥肌が立つ程恐ろしいものがあるのだ。
今まで切除していた筈の、割り切っていた筈の「一般人」が妬ましく、羨ましく思ってしまう事だ。こんな生き方をしているのにも関わらず、至極究極な一般的な生活をしているみんなに嫉妬、もしくは焦燥感を感じているのだ。 今自分がこんな生き方をしていると証明する為に何か役職に付きたい、そんな焦りをかんじてしまうのだ。なんて小さくて貧弱な人間なのだろうか。
何はともあれ、現在僕は人生の岐路に立たされており来週の8月5日までに決めなければいけないわけだが、僕としての幸せについていま一度考えなければいけないようだ。
至極面倒くさくて、難しい。いっそのことどこかの国に飛ばしてほしいくらいだ。
メモメモ
国道136を走る車と波の音が同化する。
その間に挟まれている自分は。
こんな梅雨の曇りの日になると、20年間も見続けていた水平線が黒く染まる。
世界の終わりがそこまで来ているのだ、と青春時代に聴いた曲に出てくるけれど、まさに今そんな局面に直面しているのだ。
黒というより漆黒というべきか、空の星も綺麗な水平線も飲み込んでしまう暗闇を見ているとそう実感するのだ。
漆黒に飲み込まれまいと、白い泡の塊が波打ち際にいる僕のすぐ近くまで来ている。光も持たずに精一杯存在をアピールしてくる波に美しさまで感じてしまっているのだ。真夜中の公園に立ち尽くす電話ボックスと同じでか弱い儚さがそう感じさせてしまっているのだ。
安心を求めて電話をかける人間を待ち構えるように暖かみを放って精一杯にアピールしている電話ボックス。
しかしもう既に、そんな漆黒に飲み込まれてしまっているのかもしれない。この世の果てを目の前にしてタバコを吸っている訳だから。
これはただのメモであるが故文章がまとまっていないからご理解して頂きたい。
梅雨
梅雨が始まるとなると、みんな不機嫌そうな顔になる。
でも僕は好き。この時期を春や夏と同じにするのであれば、1番感じ取りやすい季節だから。
雨の匂いと音、それに街全体が暗くなる。それなのに19時まで夜がやってこない面白さ。ずっと雨が続くから縛られる事柄が一つ減るし、猫が外に出て危ない目にも遭わない。
でもスコールのようなゲリラ豪雨や夜になっても湿度が高いなんて聞いてない。
あれは梅雨じゃない。
永遠とポタポタ、ポタポタと樋から水滴が滴れるのを数えられるくらいの、雨が好ましい。
それだったら、みんなが不機嫌なのも許せる。
よく絵本やカレンダーでも紫陽花の葉にカタツムリが乗ってる絵を見かけるけれど、生まれてこのかた、そんな場面に出会ったことがない。
なぜなら、紫陽花の葉には少量の毒があるのだから、そんなものを食べるはずもないし、乗るはずもない。