15時までの退屈な時間を耐え抜き、新宿駅から中央線に乗った。

今からPrimal Screamを観に行く。

遠足前の小学生のように、昨夜は眠れなかった。オールナイトイベントだから、睡眠は取らないといけないのに、興奮して眠れなかった。

私は今から憧れの人に会いに行く。

既にこの世にはいない、David Bowieを除いてただ1人、私があってみたい人物。

それも、高校生の頃から憧れている。

心ではまだ夢を見ているようで現実味を帯びていなかったが、体には現実を受け止めておりニヤニヤが止まらなかった。

心臓が浮くような感覚。ソワソワとした緊張感が身体中を巡る。

座席に座りながら外をぼうっと見ていた。これ以上に高まってしまうと可笑しくなってしまうような気がして、イヤホンを耳につける事ができない。

空気がいつもと違うように感じ、夏の生温い風がどこか透き通っているよう。

夏休みの、学校で行われた盆踊りの時のように。

 

私は今とても、興奮している。

ひた走る

そさくさと自分に逃げこみまする

絡まった紐をほどきながら

さとかれないように

自分を巻き込めようとする

髪を手でほぐしながら

谷への道は続く

巻き込みを巻き込みながら

等間隔に続く街灯は心を安定に保たせながら何不自由なく進んでゆく。

忘れたものを忘れた者たち。

最初の、生まれたての、初期衝動のようなあの感覚を忘れてしまった彼らが向かうは無煌な枯古なあの街へ。

希望に縋ることもせず、安堵を求めることもせず、昆虫のような生物の本能のまま、一抹の怪しげな光へと集まってゆく。

何も求めることもせず、類似的な所謂摩耶かしのような一種のムーブメントに身を寄せ、私こそ無機物的な存在なのだと自偉を唱えるのである。

私が過ごすこの街では毎日こんな生産的なものが産まれるばかりである。非生産的であった何か。かつて憧れであった何か。私の青春であった何か。

3月の雪

雪はゆっくりと下ってゆく。

速度を変えず我を案じたままに。

変化を臆する事もせず、我が物とし、表現をするように。

私には最も響く物事なのだよ。

夢矢、何が起きたのだと分かりはしないが、そんな事柄をモノともせず自分へと昇華するそんな生き様は各雄偉人の様な気がするのだよ。

ペースを乱しながら、周囲の心情を変えながら、綺麗に形取りながら落ちる様は、初めてロックスターを見た感情に似たような、異世界の、異文化の、幾何学な物をみた様な感覚を与えながら落ちて行く様は、一種の冬の出来事の、冬の風物詩とは言い難い普遍的な出来事に感じます。

3月に降ったあの雪は、正しく私に問いかける様にそう呟いているのです。そう、呟いているのです。終わりかけの花弁のように、最後の力を振り絞り私に怨を垂れるのです。

私的早朝常行動

日常とは

日常とは段々と些細な物が積み重なってゆくミルフィーユな物であった。

どうでも良いような電車の広告も既に間に合っている電車に向け只の早足に足を合わせるような会社員も、通勤ルートが同じの女性でさえも。

さて、と心を入れ替えたというより1日を諦めた私が家を出てまず初めにする事というと近所の猫(通称にゃぁ〜ん、にゃーんではない)を確認するところから始まる。と言っても1週間の半分以上、確認をすることが出来ないくらい気紛れな猫であるが、あの野良猫とは思えないほど肥えたにゃぁ〜んを見てしまうと今日一日どころか1ヶ月頑張ってしまう程元気を貰えるのだ。

その後壊れたワイヤレスイヤホンを耳にセットし、長ったらしい接続を試行錯誤しながら成功させ「本日の始まりの一曲」とやらを再生するのだ。ちなみに最近はクラシックにハマっている。理由は後述する。

私はが住んでいる街はどうやら会社員に人気のスポットらしく、ビジネススーツを纏い大変朝とは思えない顔をしている人間たちと駅までの道を共にしている。

彼らには恐らく、というか絶対にクラシックやら、朝の爽やかな音楽を聴くような余裕を自ら作っていないから、私はいかにも真剣な顔になりながら早足で横を過ぎ去って行く。するとどうだろうか。親ガモに置いてかれる子供のような顔つきで後ろを一生懸命とついてくるじゃあないか。これは面白い。

皆が乗るであろう9:37の電車より5分程早く彼等は駅に着いてしまうのである。

駅に着いた後私は勝ち誇った顔をしながらファンファーレとなる明るい音楽を聴くのである。(今日はポーグスであった)第一、彼等にはそんな余裕のないのでただ、ただ、早く駅に着いてしまった後悔に蝕まれるのである。実に愉快である。

そんなこんなで私を初動は始まるわけである。

ここからは只の余談ではあるが、通勤時間が常々一緒な女性のコートが凄く気になるのである。

パンナム航空のロゴみたいな線が入った、黄緑色の、いやそれをさらに薄くしたからのような色の、まるでカーテンみたいなアウターを着ているのだ。

おまけに首元にはブランド名であろうラベルのようなものがデザインの如く貼ってあるのだが、私にはそれがいかにもカーテンについてくる煩わしいラベルにしか見えないのである。

思い切ってそのラベルを切ってやろうか、そんな気持ちになる朝である。

飽きたのでもう書くのもやめる。

また今度

体調を崩し丸三日間寝込んでいた、そんな月の始まりであった。

身体の怠さは抜けてはいないが今日こそはと家を出てみる。

電車に乗り暫くすると、体が暑くなるのを感じた。

春の視線が厳しい。世間はもう春服で平日だというのに気持ちが良さそうな顔つきで満員電車を乗っている。3月に出遅れた私には何だかクラスの流行に取り残された孤独な子供のように室温とは別に熱ってしまっていた。

そういえば昨日は雛祭りだったらしい。こんな時お雛様が羨ましいと思う。毎年決まった日に決まった場所で決まったようなお台の上に飾ってもらえるのだから。とても、外界に出てなかった同じ身としても段違いである。

とはいえ私も今月から本格的に始動するのである。

事務所に無事に入り、ついに詩人としても活動していこうと思う。

ただ私の書く詩というのもまるで短編小説みたいなものが多く大丈夫なのかとも思うが。つい1年前までは物書きになろうと思っていた訳だから仕方がない。

それでも今後の私に乞うご期待である。

Born Slippyについて

改めて聴くと素晴らしい曲であります。

序盤に流れるあのメロディは謂わば独りになってしまった喪失感を表現し、中盤から始まる喧しい賑やかなビートは独り立ちをして新しい生活が始まるのを告げているかのようです。

劇中の表現に影響を受けてはおりますが、たった今私は酷く嫌悪感、言うなれば孤独感を感じておるのです。それもとても些細などうでも良いことでありますが油断をしていた分、鈍もどきに両断された気分であります。

とまあ話は戻りますが、2度目の孤立メロディの際最初のものとは別の意味で聴き取れるのです。

清々しい孤独、未来のある孤独に聴き取れます。

何を私は変なことを言っているのでしょう。

私ごときが少し幸せに浸っておりました。こんな私が

知らない内に2022年になりました。幼い頃に想像していた未来という年に現在生きているのですから、私は近未来的な崇高な存在となったのです。

 

今年こそ、やってみようと思います。この憂鬱な日記も前述した通り理想の人物像に近づこうとやってきた訳でありますが、最近は多忙な事もありそんな事も考える暇がありませんでした。しかし、周りの友人や初めて会う人間達に変な印象、ここでは僕の目指していた人間像として見られることがあり、無意識にそちらへ向かっていけているのが感じ取れます。

何が良かったのでしょう。職場?趣味?環境の変化?パートナー?全てを取ってみても私の理想に重なります。つまり言うと私は至極幸せなのであります。24歳にしてここまで堕落した人間がこんなに幸せになっても良いのでしょうか。まるで27歳で彼らのように死んでしまうのではないかと考えてしまいます。もしそれで死んだもそれは幸せな事変わりがありませんが。

 

今朝初夢を観ました。とても変わった夢でありました。私が二重人格になった夢です。夢の話なので細かな事は覚えておりませんが夢日記メモに従い少しだけ書いてみようと思います。

夢にて、私がいたのですが次の瞬間私の隣にいた人物に憑依というのですか意識が入り込んでしまったのです。別の人物の視点から本物の私を覗いておりました。ですが次の瞬間その別な人物の意識、行動ですら私がコントロールをすることができその場に「わたし」と「わたしである何か」がいることとなりました。

勿論私も動揺しましたが、夢でありますから直ぐにお医者さんが登場に診察が始まりましたので事情を説明すると私に「それは二重人格ですねぇ〜」と安っぽく言ってくるのです。そこで私がふと気が付き、二重人格なのであれば正面にいるアレはなんなのですか。と

 

ここで記憶は途切れております。アレは二重人格というにはハッキリしすぎており、というか別人が私として存在していたのでとても驚きました。

続きはまた書きます。